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イシミナトのマキの近くに住居を建て生活するのに一番いい所がありました。「すみよし」と呼びましょう。勝手に出入りできないように日和山斜面の下に門を作りました。やがてそこに住む人も増えてきました。「かどのわき」と呼びましょう。「いすみなとのまき」と「すみよし」の間には排水路の役目もする川が流れていました。小船程度なら遡っていけます。駅前を通り田道町を横切り蛇田を過ぎると大きな谷地(湿地)です。もっとまっすぐ進んでみましょう。広渕沼の手前に丘陵が見えてきます。よく見ると丘全体をぐるりと板塀で囲み中には当時としては驚く程広くりっぱな屋敷や倉があり兵隊もいました。「牡鹿の柵」というヤマト朝廷の砦でした。ある日、船便で荷物が届きましたが他所へも同じような物を送るので間違えないように竹札がついていました。「イシミナト止牡鹿の柵行き」は「海道二番」でした。その札は1300年の後に矢本町の文化財になりました。 坂上田村麻呂の活躍で東北はヤマト朝廷の支配下に落ち着き多賀城以北の街道も整備され大きな牧・馬産地は岩手県に移りました。 しかしその後、700年ぐらいの間、大きな戦乱や身近の小競り合いの戦などが途切れる事はなく、人々は今日生きる事に懸命でしたので、いつの日かイシミナトに牧があった事などすっかり忘れてしまいました。 1600年に天下分け目の内戦があり、やっと天下が統一されました。ここ「いしのまき」は伊達の殿様の領内です。川村孫兵衛大棟梁の大規模河川工事のおかげで「みなと」や「いない」と「かどのわき」「すみよし・ふくろやち」「いしのまき」の間の北上川はりっぱになりました。黒沢尻や一関、花巻から米を運び、江戸まで積んでいく事ができるようになりました。「すみよし」には各藩の米倉が建てられ伊達藩の鋳銭場なども作られました。 50年間も戦(いくさ)が途切れました。つまり50年間も人殺しをしなくてよかったという現在の日本に近い平和なある日、1650年の事でした。 明日、仙台の青葉城からお殿様の使いが参ります。各村々の名前の由来や特産品、世帯数などをヒヤリングに来るというのです。もう何ヶ月も前から「すみよし」や「みなと」「かどのわき」「いしのまき」「へびた」「わたのは」「いない」の肝いり(地域の偉い人)が何度も集まって対策を練ってきました。お互いに納得した報告がなされ、一箇所だけ特出して損をしたり得をしたりしないようにしなければなりません。後で争いになります。 大体の調整は終わったのですが一人だけ青い顔をしていました。「いしのまき」の肝いりです。何故なら、そもそもの「地名の由来」がわからないのです。 「いすのまぎ」っつのは、ず~っとめ~(昔)がら「いすのまぎ」だったのっしゃ・・・・ などと報告したら肝いり・クビです。焦りに焦り、ついに「いしのまき」の肝いりは他の肝いり達に助けを求めました。でも誰もすっきりした答えを出せません。 すると肝いりの中でも一番の長老で知恵深く他の肝いりからも尊敬されていた「すみよし」の長老がおもむろに、低く唸るように、そして絞り込むように呟きました。 (我が家の前に「巻石」がある。) 車座の肝いり一同がぐるりと他の肝いりを見渡し一斉に首を縦に振り大きくうなずきました。 やれやれと一同安心してやっと宴会がはじまりました。 ここ何ヶ月か「対ヒヤリング対策」で肝いり達は大変でした。村と村の境界線や水源の権利、漁業権、中瀬や島の所有権、田畑の面積など自分達の村の存続を掛けた調整会議が連続したのです。でもいつも、最後に宴会が始まってしまい「ま~いいが~この次で~ハァ~」の連続でした。(つまりこれが50年の間戦(イクサ)をしなかった結果なのだと思う。) 「いしのまき」の肝いりは特に大変でした。誰も解らなかったのですから・・・地名の由来が・・・・ 「まんず、助かったでば~・・・」 「いしのまき」の肝いり(Hさん)が「すみよし」の肝いりに酒を注ぎながら言いました。 「な~ぬも~・・・いがす~いがす~」 と答えながらお二人はべろんべろんです。 お互いに内心「多分、違うな・・・」とは思いましたが・・・ |
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