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肝いり達は多分、岩手県に花巻、葛巻、仙台には鶴巻、葛巻がある事、そして会津に芦の牧温泉がある事などは知る由が無かったでしょう。又、たとえ日本書紀や古事記が家の床の間に飾ってあっても読めなかったでしょう(漢字、漢文、お経が読めても記紀は解読できなかったという意味で・・記紀は漢字の難解な芸術だったらしい)。かくいう私も宇治谷孟先生(と奥様)がいなければ書紀系(古典)に触れる事は有り得ませんでした。江戸時代・・いや〜降参だよペルリ君の1853年まで「地球人類の奇跡」とも言える程の平和が続きました。が、その時、少し残念ながら遺跡や古墳や古典が無遠慮に扱われ、かなり間違った解釈もまかりとうりました。そしてそれはまことしやかに文字に残されたりもしました。かつ、東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)などに代表される思慮浅い偽書の労作をこつこつと書き上げる暇人なども各地に出現したようです。(最近でも幼稚な考古通がやらかしましたが) 日本の学術的考古学はモースが弥生で貝塚を発見してから始まりました。それ以前の認識は一度リセットする必要があります。 「石巻市」の地名は間違いなく「伊寺の水門」から始まると私は確信しています。 これは、古代「かづさみなと」と「津」が同居している千葉県の「富津市」から以北、まだかいな・まだかいなと船を漕いで目指したのは牡鹿郡(柵)の「いしのみなと」=石巻エリアだったという事です。 ただ「伊寺の水門の牧・イシミナトのマキ」がいつしか「イシのマキ」に変わっていくというプロセスについては諸説あって当然だと思います。私の中でも複数のパターンががせめぎあっています。ただ江戸時代まで○○ミナトと呼ばれていた港湾都市の多くは○○市の湊町という表示に落ち着いているように思われます。アカデミックな解説は専門の方の登場を待ちましょう。 とにかく誰がどのように想像しても「正解です!」と答えられる人はいないのだ。 だが、「多分そうではないでしょう。」と言える主張はあってもしかるべきだ。 私にとっては・・・ ・・・・・この石巻エリアの地方史から一時、削除される必要がある様な気がしてならない。 などと少し大胆に書いてしまった。 が、多分・・・・・(少しは自信があるのだ。) 以上、ここまで読む人はいるのだろうかと思いながら・・ |