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ミナトという発音と漢字の「湊」「港」

『古代「伊寺水門(いしみなと)」とは間違いなく石巻を洋上から見た呼び方であった。!!』 という説がいかに正当で正統であるか、もう疑う人はいないと思います。(・・?・・)
ではいつごろ、どうやって「いしのまき」に変化したのでしょうか、という部分(核心)に移りたいと思います。
が、その前に漢字の「湊」の持つ意味について気付いた事を書いてしまいたい。
古代〜7世紀、漢字が輸入されて(或いは漢字の先生がやってきて)、当時の日本語と溶け合う時ミナト(ミズノト)という発音と場所を表す言葉に「湊」「港」を当てはめました。辞書によると「湊」という漢字は葉脈の如く細い線が集まって太くなっていく時の合流点の様子を現しています。言うならば俯瞰(ふかん)・上から見た様子です。又「集まる」(あつまる)であり、かつまた「湊まる」(あつまる)であります。「集まる」は木の上(基)に物、者が参集する事です。これは個人的な見解ですが、後で解散・散る・離れることを前提していると思います。「湊まる」(あつまる)の方は一方向に太くなっていく様を現していると思われます。 という事で湊という文字は「さんずい」を使用している分、液体関係の表記には「湊」を使用するのが本来的ではないのだろうかと思いました。たとえば

「五月雨を 湊めて早し 最上川」

が正解なのかもしれないと思いますがいかがでしょうか


1600年以上の昔、田道将軍の時代、湊という漢字がまだ日本に伝播していなかったころからここは「ミナト」と呼ばれる(発音される)場所だったのです。常盤以北はヤマト王権と対等に交易し、(季節の贈り物は献上していましたが)まだ束縛を受けていない蝦夷(エミシ)の住む地域「日高見国」でした。そこには美しい港湾集落がありました。伊寺水門(いしすみなと)です。大門崎、吹上あたりは波荒く打ち寄せる磯・岬だったでしょう。吉野町・御所入は静かな入り江でした。ちょうど現在の湊小学校の校庭辺りが誇り高く勇猛なエミシ、エビスと呼ばれる人々の郷でした。


 
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