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石巻地名由来考の横道

古本屋さんで石巻の偉人高橋鉄牛氏の「牡鹿郡案内誌復刻版」を買ってきました。大正五年に発行されたこの本は牡鹿郡を産業、歴史、風土全て織り交ぜ声高らかに宣伝鼓舞するかなりパワフルな内容になっています。あまりにもパワフルな分、若しかして誇張ぎみに書かれているように思えたりもします。ですが、石巻地方の近世の印象が面白く思える本です。実は「伊寺水門」についての記載がないか手にしたのですが特技「立ち読み」では読めなっかたので購入しました。(旧かな使いだったのだ。)又、私が今ここに書いているような発想はどなたかがすでに書いていてもおかしくないので探してみようとも思ったのですが、別な意味で驚きました。
「竹の水門」も石巻だという・・・・ここで「竹の水門」(タケノミナト)について
遠い昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が蝦夷征伐にいらっしゃいました。海の神が船を漂流させ進めさせませんでしたが、弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて暴風を鎮め陸奥国に入る事ができました。その海を馳水(はしる水)と名付けました。葦浦(あしのうら)から玉浦(たまのうら)を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入りました。そこには蝦夷(えみし)の首領島津神(しまつかみ)・国津神(くにつかみ)が竹水門(たけのみなと)に集まり防衛しようと待ち構えていました。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は船に大きな鏡を掲げて進みました。その美しく神々しい姿に蝦夷(えみし)は戦う前にひざまずき、服従しました。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は蝦夷(えみし)を許し部下にして帰路につきました。
という「日本書紀・景行天皇紀」における「竹の水門」も石巻だと書いてあるのだ。
「おそるべし!」と感嘆する気持ちと「う~んム・・??」というモヤモヤした思いが交錯する所ではあります。
北上川河口の飯野川から馬鞍あたりまで広がる葦原は有名です。でも、国の名を豊葦原千五百瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみつほのくに)と日本神話の最初の所で称するのだから古来、葦原は水辺のどこにもあったはずだし、そして、玉浦とは・・?歌津を過ぎたあたりの「碁石海岸」の事か?などと思っていたら岩沼市にしっかり玉浦サッカースポーツ少年団・玉浦小学校があった。高橋鉄牛氏の主張もあながち???
ですが残念ながら記紀の前後と照らし合わせるとさすがに「竹の水門」(タケノミナト)まで石巻とは主張できません。 というのもヤマトタケルミコトは直前に焼津を発たれ、上総(かみつふさ)へ渡られる途中だったからです。古事記には「竹の水門」の記載はありませんが、日本書記ではこの弟橘姫の出来事のあと蝦夷の十二国を平定され、日高見国を出発して甲斐の国、酒折の宮まで戻りました。その時点で筑波からの行程が「九泊十日」だったというのですから多分石巻へは来られなかったと思うからです。
日本地図を眺めながら思います。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は一気に東京湾(浦賀水道)を渡ろうとして苦労なされたようです。そして千葉県鴨川市と勝浦市の間にある「天津小湊町(あわあまつこみなと)」は「竹の水門」(タケノミナト)に限りなく近いのではないでしょうか。(今まで私が知らなかっただけなのか?)

 
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