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ミナト

実は「田道将軍が石巻にどうやって来たのか」という話題を目指しているのですがうまくいきません。少し強引に仮定させてしまいますが、田道将軍は海路で石巻にきたと思います。当時、自分達の食料と武器、武具を持って長期間の遠征をするためには多少沈没の危険が伴っても船運が一番楽だったはずです。 40〜50人の兵士と荷物をギュウギュウ詰めにしてやっと浮いているような筏に近い船10〜20隻で浦から浦へと伝い、波と風の様子を見ながらやって来たのではないだろうかと想像しています。(歴史関係の先生方の対談集などにもそういう記載が多いと思われます。)
658年には「阿部比羅夫が船軍百八十艘を率いて蝦夷を討つ」(日本書紀)とあり日本海側では「589年の巨満の東山道視察」から69年経ってもなお船で移動している。(が、この船団は663年白村江の戦い・朝鮮半島遠征の予行演習だったようですが、)
ヤマト朝廷は自分達の船・船団が出発して何がしかの役目を果たして戻ってくる港湾基地をミナトではなく「津」と呼んでいます。最大の津が大津です。畿内はもとより早くから影響下にあった所を「津」と呼んでいたと仮定するならば、同時期に「ミナト」と呼んでいた場所はどんな所だったでしょうか。
「ミナト」とは多分、遠征した船が転覆する心配なく、そして荷物や兵馬を濡らすことなく積み下ろしできる場所を指していると思います。浜や、リアス式海岸の岸壁は危なくて船を近づけられません。治安上での安全性についても、本来原始の昔から物の交流があった訳ですから常に敵対していたとは思われません。どうしても蝦夷、熊襲などというと反逆者というイメージが強いのですが私はどちらかというと「のほほん」としていたに違いないと思っています。あくまで征服しに来たから「戦った」のではないでしょうか。
ここで<みなと>という言葉にこだわってみましたら、すごく単純な事に気付きました。<みなと>はそのまま<水の門戸=川水の扉→みずのとびら→みずのと→みなと>でよかったのです。そして、はたまた気付いた事があります。
網地島ラインのマーメイドやブルーライナーに乗って日和大橋の下をくぐり田代島を目指し10分ぐらいしてから振り返ると右手の大門崎・館山と左手の日和山の間は背景が抜け、くっきりとあたかもゲートのように見えます。このゲートを当時の人は何と呼んだでしょうか?多分この光景をして<みなと>と呼んだのではないでしょうか。調べてはいませんが、福島県の岩城あたりから浜と浦をどんどんと越して来ると阿武隈川や鳴瀬川などの大きな河口はあるけれども洋上から見るとどうもはっきりしないのではないかと思います。川口は開けていても背景に同じ高さの山々が重なって見えているのではないかと思うのですがご自分の船などお持ちの方は検証してください。
そしてはたまた気付いたのですが、という事は日本全国にある「○○みなと」という地名はほとんどが「○○のゲート」という意味になるのではないだろうかと考えていますがこれも確かめていません。
例)13のゲート、大きなゲート、中のゲート、土佐のゲート、能代のゲートなどです。
つまり○○のミナト(水門)とは航海上の目安・ランドマークだった。



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