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道と馬

367年に石巻(伊寺水門・いしみなと)で大和朝廷軍と蝦夷(エミシ)達が戦ったという事は、朝廷軍の拠点はすでに有名な「多賀柵(多賀城)」付近まで北上していたのでしょうか?まだ柵を設置できる程優勢で無いにしても戦う集団・軍団が自分達の食料と武器を持って行軍して来られる程の街道が石巻まで伸びていたのでしょうか?多分、まだまだ到達していない。
日本書紀では589年になって初めて「近江巨満を東山道に進ませどこからが蝦夷の国なのか」と調べさせている。日本書紀の中でも本当にあった事実と、表記してある年号がスリ合い現在進行形になってゆくのは当然670年を過ぎたあたりからです。でも「589年の巨満の東山道視察」は当時の記憶にも新しく事実に近い表記ではないかと思われます。田道将軍の時代に福島県岩城(常磐)あたりから石巻にたどり着くための陸路は湿地、山、谷、川、その他の自然の障害でかなりハードで危険だったと思います。
『日本書紀』では田道将軍は新羅に於いては騎馬を操り戦いに勝利しています。馬が当時、日本国内にどの程度普及していたかを想像すると日本の軍隊が大陸に渡って『兵馬』を操り勝利する事はかなり天才的な事だったと思います。国内の戦いにおいて『軍馬』の役割が突出してくるのはかなり後の事で「源平合戦」における義経や義仲あたりまで待たなければならないのではないだろうかと私は思っています。(東北地方では、その少し前、前九年の役、後三年の役などでかなり騎馬戦をしています。)
日本民族は大陸から馬が輸入されてきた当初、高速の情報伝達手段として扱っています。大和王権は「駅鈴」を用い「良馬」を乗り継ぎ情報を伝達させたり使者を高速移動させる街道を整備しました。もちろん使用許可を出せるのは大王だけでした。○○の乱、△△の変の時、最初に狙われるのはこの「駅鈴」でした。駅鈴とはつまり、諸国に命令をいち早く伝える王権そのものであった訳です。そして各駅で馬を管理調教する担当者及びその集落は国家的役職とされ律令上かなり優遇されていたと思われます。(などと書いていたら平成15年11月の発掘では河内馬飼一族などは厳戒に隔離されて馬の飼育・調教にあたらされていた様子が解明されようとしています。また、調教技術を維持できなければ身分を下げると脅かされてもいます。可愛そうに「優遇」では無かった可能性もあります。)
そして一方、奈良平安時代の絵巻などを気を付けて見ると一つの武者グループに「馬」は主人の1頭程度しか描かれていません。よく見るとどの馬も思いっきり手綱を引かれ目を剥いています。(つまり緩められた瞬間に飛び上がりそうな興奮状態に見える=馬はすごく扱いにくかったのではないだろうか。)先ごろお亡くなりになりました超お偉い先生が「ヤマト朝廷は騎馬民族が大陸から移動して先住日本人を征服したのだ。」という学説を提唱されていましたが、私にはちょっと腑に落ちません。日本書記における「馬」に関する記載を読む時「騎馬民族たるヤマト王権」が書き残す事とはとうてい思えない部分が多いと思います。馬の調教を失敗してみたり、朝鮮半島からの贈り物の馬2頭をたいそうありがたがったりしています。
追1)ただ、縄文とか弥生とかいう時代に朝鮮半島から九州北部か畿内へ先住日本人の間に割って入った文化、民族がある事は間違いないと思います。結果、一番遠くへ追いやられたアイヌの人々と沖縄の人達は元々同じ民族である事も検証されようとしています。663年白村江の戦いに敗れ百済も無くなるのですが、ヤマト朝廷にとって「百済」とは朝鮮半島に残してきた懐かしい親戚だったと考えた方が自然です。
極端な言い方をすると、新羅や隋、唐、熊襲、蝦夷との間には通訳が必要でしたが、もしかして百済の人とは通訳が必要なかった可能性もあると思ったりしております。

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