エリアの古称・伊寺水門(いしみなと)

石巻の地名に興味を持つと『伊寺水門』という文字にどこかで遭遇します。伊寺と書かれていたり伊峙と書かれていますが水門は同じです。ただし水門(スイモン)は「みなと」と読みます。
全くいずくらしい読み方です。
ですが、この伊寺水門(いしみなと・いしのみなと)と日本書紀に記載されている土地・処が、現在私達が暮らしている「石巻エリア」の古称であり史書における初見であるとする説があったのです。


で、調べました。


先ず、『日本書紀』において伊寺水門(いしみなと)という地名が出現する部分を簡単に紹介します。
宇治谷孟著「日本書紀」をさらに簡略にしますと・・

『西暦367年(仁徳天皇の時代の55年)蝦夷(エミシ)を討ちにきた田道(たみち・たじ)将軍が伊寺水門(いしみなと)で戦死した。従者が形見の「手に巻いていた玉飾り」を都の妻に届けたが悲しみのあまりその玉飾りを抱きしめ死んでしまった。悲しい話だと人々は噂した。後日、蝦夷(エミシ)が将軍の墓を掘り起こしてみたら中から毒蛇が湧き出て蝦夷(エミシ)はほとんどが毒にやられ生き残ったのはわずかだった。いやはや田道(たみち・たじ)将軍は死んでもなお任務を果たしたんだね~、と人々は感心した。』
(田道将軍はその2年前に新羅に渡って騎馬を操り、新羅軍を全滅させてきたほどのいわゆる「ヤマトタケル」に匹敵するような大王(オオキミ)直属の大将軍だったのです。)

ナニスヤ・・初めて聞いた・・・という方も多いのではないでしょうか・・
ですが、もっと調べていくと、実際には千葉県鴨川市と勝浦市の間にある天津小湊町から青森県八戸市陸奥湊町までの太平洋側の港湾都市は全て「私達の所がかつて伊寺水門(いしみなと)であった。」と主張する権利があり、本当の所、中央発の歴史関係の本や記紀の注釈には、むしろ石巻エリアの名前など載っていませんでした。「石巻の古称である。」という主張は石巻エリアの先達の方々が地域の歴史を掘り起こす中で書き残し、現在では高橋富雄先生が著書や講演会で確信を持って主張されております。しかし一方、志津川町在住の佐藤正助先生でさえも著書の中でもっと南、福島県方面ではないかと書かれていたのには少し落胆した記憶があります。
という事で、何処が『伊寺水門(いしみなと)』であるという物証はどこからも出現する可能性は無いし、違うという証拠が発生する可能性も無いのかもしれません。
ですが、古墳時代から日本書記が編纂された飛鳥の時代、つまり文字を受け入れて嬉々として万葉した人々が「イシミナト」と発音したエリアだったという「せっかくの可能性」を自ら放棄して、江戸時代の初期、伊達政宗公の命を受けた土木建築の天才・川村孫兵衛吉翁によってやっと整備された北上川河口の「船止石のひとつ」とでも称してしまいそうな「巻石」からの転称であるという説に納得して地域の後世代に受け継いでかまわないのだろうか・・。という思いもよぎりました。 「巻石説」はおかしくないかい??「巻石説」はもしかして陳腐でかなしくないかい??
と思いつつ書きはじめた「伊寺水門(いしのみなと)は「石巻エリア」の古称である。」というテーゼを進めていきます。



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