慶長遣欧使節 帆船サンファンバウチィスタ号の建造地に対する私見



建造地についての私見です。(改021/9/20)

〇雄勝の震災前の硯物産館やB&Gがあったあたりと思っています。原木その他の原材料置き場、加工場、組み立て・造船場と考えると建造船の10倍の面積は必要かと思います。深水が深く全方向からの風に守られている世界有数の良港とビスカイノに絶賛されましたが船戸神明様前は浜だったと思います。又、貞観津波で建造物は一切残っていなかったので十分なスペースが確保できたと思います。
杭を打ち幕板を付け内側からコの字に築地してドッグを作成し、完成の後少しづつ海水を入れ浮き上がらせてバランスを確認し大潮の日に壁を壊して進水させた。重石を積んで試験航海をし月の浦で食料や人員を積み込み出帆した。と考えるのが妥当と考えます。

〇雄勝の硯上山から富士山の湧水と肩を並べる清水が湧き出ています。急ピッチの工事に参集した日本最高レベルの造船技術者集団(今だと三井造船のトップチームとか・・?)のお腹を壊さず飲める一日4トンの清水を何の準備もいらずに確保できたのは雄勝地区だと思います。又、津波から生き延びたけれど生産財・物資を一切失った(私と同じだ)周辺の浜の人達は人夫賃を得、再生の足掛かりとなったと思います。

呉壺の役割について
伊達の黒船の黒は黒漆でした。タールと思い込み時間を無駄にしました。
呉壺という地名の由来
という訳であくまで確証できないでいる私見ですが、そもそも『呉壺』という地名は造船修了後に確立したのではないだろうか?もともとは『黒い壺』つまり黒漆の壺を大量に積み上げて残った・・という状況をして『黒壺』と呼称し、やがて『呉壺』に転化していったのではないだろうか??と思った事が雄勝建造地説に傾いた出発点でした。
という事で慶長遣欧使節のサンファンバウティスタは雄勝町で造船され月の浦で荷物を積み込み出帆した・・という説が正しいんではないだろうか?と思います。

調べる中でナルホド!!と感心した事
原材料は各地から海路で参集し、山林も付近にに十分にありましたが45日という短期間でこの船ができるものなのか?と思っていましたが答えは簡単でした。同じチームが直前に寸分違わない船を作っていたのです。つまり、徳川幕府が造船して出帆直後に座礁し微塵に帰した帆船を作成したチームがそのまま雄勝に来たのでした。で、そのチームを引き連れてきたのが幕府の向井将監様でした。
幕府の船が座礁した原因ですが、私の想像では欲深な商人達による過積載、それも偽申告による片過重が原因ではないか??と想像しています。サンファンにおいても伊達様の許可を受けた、徳川様の許可を受けた・・と百数十人の商人が集まったようですが荷重については厳格にチェックされたようです。
支倉常長一行は途中夜盗にあっています。東洋のちびっこ集団がお宝を持って移動しているのですから、当然簡単に奪えると考えたでしょう。ですが、夜盗達は撃退されています。多分、手、足、胴、首などをスポーンと失い、日本刀の切れ味に驚嘆したのではないでしょうか。で、私はその脅威の戦う力が評価されたが故、常長一行は熱烈に歓迎されローマ市民権を得たりしたのだと想像しています。はるばる来ただけで受ける待遇では無かったと思うのです。
以上、サンファンバウティスタ関連の私見でした。(雑文、拙文のままですみません・。)
令和元年5月2日